1月6日 今日は・・・ [管理人日記(雑記帳)]
1月6日 今日は・・・
1879年1月6日に上野の風月堂が日本で初めてケーキの宣伝をしたことに由来します。
当時の東京日日新聞の広告で掲載されたそうです。
東京日日新聞に掲載された広告の内容は「文化は日々開けていき、すべてのものが西洋風になってきていますが、ただ「西洋菓子(ケーキ)」をつくっている人はいません。そこで当店では外国から職人を雇ってケーキをつくり、博覧会へ出品したところ大好評でした。ぜひご賞味ください。」というものだったそうです。
風月堂は、1753年に初代大住喜右衛門が「大阪屋」を屋号として菓子屋を営んだことに起源を持つ和菓子・洋菓子メーカー。風月堂の名のついた店舗は全国に複数ありますが、明治以降に暖簾分けが進んだ結果、様々な会社が名前を継承したという経緯があります。
その全てが必ずしも創業家である大住家の承認を得ているわけではなく、中には関係のない店舗が「風月堂」を名乗っている場合も多いのだとか。
ケーキの中でも王道といえば「ショートケーキ」ですが、短いケーキでもないのに「なぜショート?」って思いませんか?
実は、ショートという単語については「砕けやすい」「脆い」という意味もあり、ショートケーキの発祥の地であるスコットランドは別名「ショートランド」とも呼ばれています。
スコットランド式のショートケーキはクッキーのような菓子で、結婚式ではこれを花嫁の頭に叩きつけ、1度で割れないと縁起が悪いとされていたそうです。
これが由来となって、ショートランド(スコットランド)の砕けやすいケーキのことを「ショートケーキ」と呼ぶようになったとされています。
また、単純にアメリカではバターが高く「ショートニング(植物性油脂)」を使って作られたことからショートケーキと呼ぶようになったという説もあるそうですが、英語の「short」には「短い」と「サクサク」という意味があり、アメリカではサクサク食感だからショートケーキと呼ぶのだそうです。
が、生クリームを使っているので、日持ちがしない(時間が短い)という意味もあるという説もあり、商品の名称などについては、各製造、販売会社によって異なることがあります。
日本のショートケーキ発祥と言われる老舗洋菓子チェーン「不二家」創業者の藤井林右衛門氏が約100年前に、洋菓子研究のためにアメリカに渡り、そこで目にしたものがアメリカのショートケーキだったのだが、現在の日本のショートケーキとはまったく形が違い、生クリームをビスケットのような生地で挟んだものだったそうです。
その後、アメリカから日本に戻った藤井氏は、ビスケット生地のサクサク感は日本人には合わないだろうと判断。
古くから日本人になじみのある、ふわふわのカステラ生地にアレンジし、それをショートケーキという名前で売り出した。
そのため、「ショートケーキ」には本来の「ショート」の意味がなくなり、現在の混乱を生んでしまったという話もります。
慣例となったのは、1953(昭和28)年からです。
1659(万治2)年、1月4日に旗本の定火消(じょうびけし)が、上野東照宮神前で一年の働きを誓ったことに由来していますが、最近は地域により出初め式の日が異なっています。
「色の日(カラーの日)」
「い(1)ろ(6)」の語呂合せ。
色に関係する職業の人の記念日。
「カラー」の知識をビジネスに活かすセミナーや認定資格制度、検定試験などを実施し、カラーの普及活動を行う一般社団法人ビジネスカラー検定協会が制定。
「カラー」を通して世界中の人たちに元気に活躍してもらうことが目的。日付は1と6で「カラー」の「色=い(1)ろ(6)」と読む語呂合わせから。
「佐久鯉誕生の日」
1746(延享3)年、信州佐久の篠澤佐吾衛門包道が伊勢神宮の神主に鯉料理を献上した日。
この記録が「佐久鯉」の最古の記録とされています。
包道の子孫である篠澤明剛さんが制定。
「六日年越し」
正月七日を「七日正月」といい、その前日を年越しとして祝います。
「顕現日,エピファニー(Epiphany)」
キリスト教の祝日。
東方の3博士の生まれたばかりのキリストを訪れ、キリストが神の子として公に現れた事を記念する日。
この日の前日までがクリスマス節であり、クリスマスの飾り附けはこの日に外されます。
禅僧・良寛(りょうかん)の1831(天保2)年の忌日。
良寛(1758~1831)
宝暦8年(1758)出雲崎の名主、橘屋の長男として生まれる。父は以南(23歳)(与板出身)、母はおのぶ(または秀子)(24歳)(佐渡、相川出身)幼名栄蔵。
詩人・歌人・書家としても知られる江戸時代後期の禅僧。
良寛は俗名、号は大愚。幼名は山本栄蔵、15歳で元服し文孝と名乗りました。
安永4年(1775)18歳。名主見習役になるが46日目に尼瀬光照寺に駆け込み出家、良寛と名のり大愚と号す。
生涯無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めました。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説きました。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになりました。良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達を愛し積極的に遊んだと云われ、高名な人物からの書の依頼は断る傾向がありましたが、子供達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで書いたと云われています。
また戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わしたそうです。これも形に捉われない良寛の魅力ではないかと思われます。
すべての生きものに愛をそそぎ、老若男女、富者貧者を問わず等しく交流し、人としてどうあるべきかを常に問いかけた良寛の心は、現代にも共通する心として多くの人に共感をあたえています。
天保元年(1830)7月痢病にかかり、天保2年(1831)正月6日寂す。74歳。
8日葬儀、導師は与板徳昌寺住職大機和尚、新潟県長岡市の隆泉寺木村家墓地に葬られました。
木村家菩提寺の隆泉寺は木村家のすぐ近くにあります。
JR越後線 小島谷駅から0.7km
良寛の墓はここにあり、良寛が遷化した二年後に建てられました。
隆泉寺境内には托鉢姿の良寛銅像(滝川美一作)もあります。
浄土真宗隆泉寺は木村家の菩提寺で、木村家の墓、良寛の墓、良寛の弟由之の墓が仲良く並んでいます。
隆泉寺参道前の石碑「良寛和尚墳墓之地」は相馬御風の書によるものです。