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2024/06/09 取得称号+路線制覇 [駅奪取]



2024/06/09 03:51
「鎌ヶ谷大仏守り人」
573人目
ボーナススコア +5,000
鎌ヶ谷大仏(千葉県)駅
初回奪取:2012/02/11
[電車] 新京成電鉄線
現存駅:24/24

★ ★ ★



2024/06/09 14:34
おつかいで
近鉄四日市(あすなろう四日市)(三重県)駅
を代理奪取していただきました
初回奪取:2018/09/04
ボーナススコア +100

すでに制覇済みでしたが
(廃)路線変更のため
[電車] [廃線]近鉄八王子線
現存駅:4/4
の全駅を改めて制覇
路線制覇日:2024/06/09
制覇者:2,576人目

★ ★ ★

2024/06/09 14:59
おつかいで
福井(福井)(福井県)駅
を代理奪取していただきました
初回奪取:2017/04/25
ボーナススコア +600

路線変更の新路線
[電車] ハピラインふくい線
現存駅:19/19
の全駅を(改めて)奪取制覇
制覇者:1,436人目
スコア +190,000






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茨城県廃路線・日立電鉄線(日立電鉄)(1928 ~2005) [駅奪取]


日立電鉄線(日立電鉄)
(1928~2005)

起点:大甕駅
終点:常北太田駅・鮎川駅


開業:1928年12月27日
廃止:2005年4月1日
現況:廃止

起終点
起点:大甕駅
終点:常北太田駅、鮎川駅

駅数 14駅


運営
開業:1928/12/27
廃止:2005/04/01


所有者:日立電鉄


路線距離(営業キロ):18.1 km
(大甕駅~常北太田駅11.5 km、大甕駅~鮎川駅6.6 km)
軌間:1067 mm

駅数:14駅(起終点駅を含む)

複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線(直流600 V)
最高速度:60 km/h[1]
車両基地所在駅:久慈浜駅


日立電鉄線(ひたちでんてつせん)は、
茨城県常陸太田市の常北太田駅と日立市の鮎川駅とを結んでいた
日立電鉄の鉄道路線である
『鉄道要覧』には大甕駅~常北太田駅間と
大甕駅~鮎川駅間の2路線に分けて
記載されていたが、事実上1本の路線だった

なお、路線名はどちらも日立電鉄線だった

2004/02/01日:橋梁などの設備更新の経費がかさむことなど
を理由に2005/03/31日限りでの廃止が表明され、
2005/04/01をもって廃線となった
最終運転日は前日の03/31

廃線後は日立電鉄傘下の日立電鉄交通サービス
(後に茨城交通と合併)により、
バスによる代替路線の新設・既存路線の増発が行われている
全線茨城県内に所在。所在地は廃止時のもの。
常北太田駅(常陸太田市)
小沢駅(常陸太田市)
常陸岡田駅(常陸太田市)
川中子駅(常陸太田市)
大橋駅(日立市)
茂宮駅(日立市)
南高野駅(日立市)
久慈浜駅(日立市)
大甕駅(日立市)
水木駅(日立市)
大沼駅(日立市)
河原子駅(日立市)
桜川駅(日立市)
鮎川駅(日立市)

接続路線
常北太田駅:水郡線(常陸太田駅)
大甕駅:常磐線
★★★
1922/11/16(大正11年):常北電気鉄道に対し鉄道免許状下付
(多賀郡坂上村~久慈郡小里村間)
1927/05/04(昭和2年): 起業目論見変更認可
(多賀郡坂上村-久慈郡太田町間)
1928/12/27(昭和3年): 大甕駅~久慈駅
(後の久慈浜駅)間を開業
1929/07/03(昭和4年):久慈駅~常北太田駅間が開業
08/15:久慈駅を久慈浜駅に改称
1942/05/22(昭和17年):鉄道免許状下付
(多賀郡多賀町-同郡日立市)
1944/07/31(昭和19年)常北電気鉄道が日立製作所傘下の
バス会社と合併し日立電鉄が発足、同社の日立電鉄線となる
1947/09/01(昭和22年):大甕駅~鮎川駅間が開業
1969/03/08(昭和44年): 全線CTC化
1971/10/01(昭和46年):大甕駅~常北太田駅間でラッシュ時
を除いてワンマン運転を開始
(軌道線を除く日本の鉄道としては同年8月の関東鉄道竜ヶ崎線に次ぐ実施)
1996/11/01(平成8年):全列車ワンマン運転化
2005/04/01(平成17年)全線廃止
大甕駅~鮎川駅間
常磐線と太平洋に挟まれる形で走行し、
常磐線とは200~800 mほどの距離を置きながら並走していた
沿線は日立市の密集した市街地で、
日立製作所およびその関連企業の工場が多く点在しており、
太平洋に至近であることから海水浴場も多い
沿線人口は多いものの、終点の鮎川駅は
日立駅の3 km手前にあり、商業施設が集積する
日立駅周辺へのアクセス利用には向いていなかった
その利便性の低さが、日立電鉄線の利用者が伸びない一因でもあった
2004/03/12日まで
日中は1時間に2本ほどの本数
大甕駅で常磐線に接続するダイヤのため、
20~40分の不定な間隔だった
そのため駅によっては、1時間に1本という時間帯があった
朝ラッシュ時はおおむね15分間隔で、
1時間に4本ほど運行されていた
常北太田駅~鮎川駅間の全区間を走行する列車を
基本とし、早朝・深夜を中心に区間列車が設定されていた



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アストロニャッシュ廃駅探査履歴  1015、蓼原停留所駅 [駅奪取・アストロニャッシュ廃駅探査]





2024/06/09 21:32
アストロニャッシュが廃駅
1015、蓼原停留所(たではるていりゅうじょ)(京都府)駅 を発見
初回奪取 2023/06/04
奪取回数:3


[電車] 北丹鉄道
現存駅:1/1
廃駅:7/7


京都府加佐郡大江町字蓼原
駅構造:地上駅
ホーム:1面1線


開業:1923/09/22
廃止:1974/02/28



~備考~
無人駅
1971/03/01より休止

北丹鉄道は1971/03/01営業休止
そのまま 1974/02末廃止許可
蓼原駅もこの時廃止


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

取得廃駅
369

取得廃線
31路線

制覇廃線
31路線

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現時点での未制覇路線 [駅奪取]



【現時点での未制覇路線】


[電車] JR越美北線(九頭竜線)=19/23
[電車] JR武豊線=7/10
[電車] JR紀勢本線=35/41
[電車] JR山陰本線(園部~豊岡)=19/24
[電車] JR阪和線(天王寺~和歌山)=30/35
[電車] JR福知山線(宝塚線)(大阪~篠山口)=15/23
[電車] JR福知山線(篠山口~福知山)=8/10
[電車] JR播但線=12/18
[電車] JR芸備線=34/46
[電車] JR呉線=27/32
[電車] JR日田彦山線=18/29
[電車] JR香椎線(香椎~宇美)=8/11
[電車] 名鉄西尾線=9/14
[電車] 名鉄蒲郡線=6/10
[電車] 名鉄三河線=16/23
[電車] 名鉄空港線=1/3
[電車] 名鉄常滑線=18/26
[電車] 名鉄河和線=8/20
[電車] 名鉄知多新線=2/6
[電車] 名鉄津島線=5/8
[電車] 名鉄尾西線=16/22
[電車] 近鉄南大阪線=21/28
[電車] 近鉄京都線=24/28
[電車] 近鉄名古屋線=39/44
[電車] 南海本線=36/41
[電車] 南海多奈川線=2/4
[電車] 南海高野線(りんかんサンライン)=37/42
[電車] 京阪本線=36/42
[電車] 富山地鉄本線=39/41
[電車] 富山地鉄立山線=11/14
[電車] 万葉線=17/25
[電車] えちぜん鉄道勝山永平寺線=19/23
[電車] 西名古屋港線(あおなみ線)=7/11
[電車] 名古屋市営地下鉄名城線=21/28
[電車] 名古屋市営地下鉄名港線=4/7
[電車] 名古屋市営地下鉄鶴舞線=17/20
[電車] 名古屋市営地下鉄桜通線=14/21
[電車] 長良川鉄道越美南線=32/38
[電車] 伊賀鉄道伊賀線=12/15
[電車] 能勢電鉄妙見線=8/14
[電車] 水間鉄道=6/10
[電車] 阪堺電軌阪堺線=17/31
[電車] 神鉄有馬線=10/15
[電車] 神鉄三田線=7/10
[電車] 神鉄粟生線=11/20
[電車] 北条鉄道=2/8
[電車] 福岡市営地下七隈線線=14/18


前回疑問だった 奪取済みでも路線制覇にならない件
問い合わせで解決したので おつかいチケットで
路線の1駅を 再度奪取で 路線制覇達成しました











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茨城県廃路線・茨城交通水浜線(1922~1966) [駅奪取]


茨城交通水浜線(すいひんせん)
は、かつて水戸市から常澄村(現・水戸市)、
大洗町を経て那珂湊町、のちの那珂湊市
(現・ひたちなか市)までを結んでいた茨城交通の路面電車である
1966年(昭和41年)に全線が廃止された

概要
現況=廃止

起終点
起点:上水戸電停
終点:湊電停
駅数:36駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流600V架空単線式)
変電所:浜田
車庫:浜田(検修施設を併設)
併用軌道区間:公園口~水戸駅前、東柵町~浜田間
浜田~大洗間は専用軌道

茨城交通 水浜線

運営
開業:1922/12/28
廃止:1966/06/01

所有者:水浜電車→茨城交通
車両基地:浜田(検修施設を併設)
路線データ
路線距離:上水戸~湊間 20.5 km
軌間:1,067 mm
袴塚駅
谷中駅
馬口労町入口駅
一中前駅
砂久保駅
公園口駅
大工町駅
泉町三丁目駅
泉町一丁目駅
南町四丁目駅
南町三丁目駅
水戸駅前駅
本社前駅
三高下駅
一高下駅
東柵町駅
本一町目駅
本三町目駅
本五町目駅
浜田駅
谷田駅
六反田駅
栗崎駅
東前駅
稲荷小下駅
大串駅
塩ヶ崎駅
平戸駅
磯浜駅
大貫駅
曲松駅
仲町駅
東光台駅
大洗駅
大洗駅
祝町駅
願入寺入口駅
海門橋駅
湊駅
古くから漁業と水運で栄えた三浜地区であったが、
1889年(明治22年)水戸鉄道が開通し、1896年(明治29年)
日本鉄道が東京の隅田川駅まで開通すると交通手段が内陸を通る
鉄道に移って磯浜界隈の経済を支えていた海運業に
陰りが見られるようになった
各地で鉄道や軌道が開通した明治期から、水戸近辺においても
海運業が衰退しつつあった磯浜付近と鉄道開業で
地域交通の中心になった水戸市を結ぶ鉄道や
軌道の敷設が計画され、磯湊鉄道・水浜電気鉄道・水戸水力電車
・水戸海岸鉄道などが続々と出願したがいずれも却下
あるいは未成に終わり、同地に電気軌道が開通したのは
大正も半ば過ぎであった
太田町(現・常陸太田市の一部)の豪商五代目竹内権兵衛が
中心になって水戸と磯浜を連絡する軌道事業と沿線地域への
電力事業を目的として水戸海浜電気軌道の設立を出願し、
1920年(大正9年)に路線の特許を申請
翌1921年(大正10年)に社名を改めて水浜電車として設立した
1923/12/11(大正12年)にまず電力事業を開始し、
軌道事業は12/28に水戸市下市の浜田と磯浜の間が開業し、
以降順次計画路線を延長開業して上市の大工町への
乗り入れ区間は1925年(大正14年)に開通した。
開業後の業績は好調であり、春先には偕楽園へ梅見の観光客輸送、
夏季は磯浜・大洗海岸への海水客輸送で活況を呈した
水浜電車は積極的な乗客誘致策を実施しながら
事業資金の手当てに奔走し、計画路線の建設に着手する

平戸停留所の南300m~400m程の位置に
「水浜グランド」という多目的グラウンドを設置し、
草競馬を開催することで乗客誘致策の一環とした
1913年(大正2年)に勝田~那珂湊間を開通させていた
湊鉄道(現ひたちなか海浜鉄道湊線)に対抗するべく
湊町(現・ひたちなか市)方面への路線を計画し、
延長が完成するまでの暫定措置として1923年(大正12年)より
涸沼川橋梁横の乗船場から湊町までの連絡汽船を
就航させて30分間隔で運行した
磯浜~祝町の軌道が1926年(大正15年)に延長開業して
連絡汽船の運行は休止されている
祝町~海門橋は1927年(昭和2年)に延長開業した
西側の終端である水戸市西側の袴塚へは
1928年(昭和3年)に延長開業し、
近隣の陸軍歩兵第二連隊関係者の利用促進を図った

一方の東側の終端はコンクリート造りの3代目海門橋の
完成に伴い橋上に併用軌道を建設して湊町の入口への
乗り入れを1930年(昭和5年)に実現し計画路線がほぼ全通した
水浜電車の設備や車両は路面電車規格で運転速度も低いが、
路線完成によって水戸市街の中心部と大洗・湊方面を
結ぶインターアーバン(都市間連絡電気鉄道)的な性格を持つに至った
~乗合自動車事業と配電事業~
1918年(大正7年)から水戸市内~磯浜間で
乗合自動車(路線バス)を運行していた本橋自動車商会が、
当初70銭だった運賃を1930年(昭和5年)には45銭まで
値下げしたうえ運行本数を増加しており、
水浜電車と乗客を奪い合う状態だった
電車の発車直前を狙って乗合自動車が停留所の
乗客を奪って走り去るありさまで、双方の
乗務員の間で小競り合いが頻発した
過当競争に加えて昭和恐慌のあおりも受けて
水浜電車は軌道部門の経営状態が赤字に転落するが、
企業全体としては1926年(大正15年)に日立電気を合併したことで
配電事業の営業範囲を水戸・勝田・日立周辺へ拡大して
好調に収益を上げており、この年株式配当を実施している
軌道を含む運輸部門の経営も攻勢に転ずるべく、
この頃から水浜電車は茨城県東南部の乗合自動車事業者や
民営鉄道事業者の経営権取得や買収を積極的に行っていく

ライバルの本橋自動車商会を1932年(昭和7年)に買収し、
同年10月に新たに設立した傍系の大水戸自動車に事業を
引き継がせることで競争に終止符を打った

1934年(昭和9年)に大宮自動車・高部自動車・太田乗合自動車
の株式を取得して傍系の袋田温泉自動車を設立し、
1935年(昭和10年)、大水戸自動車から乗合自動車事業を
譲渡され水浜電車自動車部が営業を開始した

乗合自動車事業の収入は軌道事業の収入を上回っており、
経営の大きな支えになった
1939年(昭和14年)には湊鉄道(現・ひたちなか海浜鉄道湊線)
の株式の90%を買い集めて経営権を握り、
翌年には慢性的に経営不振であった茨城鉄道(後の茨城交通茨城線)
の経営に参加して、陸運統制令を待つまでもなく地域交通の
事実上の経営の統一は実現されていた
配電事業の収益は軌道事業の収益を上回っていたが、
1942年(昭和17年)4月に配電統制令により
事業を関東配電へ譲渡し重要な収益源を失う
本業の軌道事業も1938年(昭和13年)の水害による
海門橋流出で湊~海門橋間の運休を余儀なくされ、
経営上苦しい時期であった


~茨城交通の設立~
戦時色が濃厚になるにつれ、乗合自動車に使用する燃料や
ゴムタイヤが物資統制により入手困難になり
正常な運行が次第に困難になる
満足に走れなくなった乗合自動車の利用客が
軌道線に殺到し、1930年(昭和6年)上期に
9万8000円だった軌道部門の収入が1943年(昭和18年)
上期には62万2000円と急増している
乗車待ちの利用者の列を尻目に車外まで乗客が鈴なりになった
電車が出発していく状態が戦後まで続いた
大戦下の国策であった陸運統制令による交通統合に伴い、
1944年(昭和19年)に茨城交通を設立する
旧水浜電車の軌道線は同社の水浜線となり、
同社の茨城線の上水戸への連絡線を開業して
袴塚から起点を移した
同年、男性従業員が戦時召集された事による
人員不足対策として女性車掌を30~40名程度採用している

1945/08/02(昭和20年)未明の水戸空襲で軌道や
架線設備等が被災したが空襲に備えてあらかじめ
郊外に避難させていた為車両はすべて無事で、
破壊された設備の復旧に努めて同月5日には浜田~磯浜間を
部分復旧させ、10月には全線で運行を再開した
戦後は昭和20年代が全盛で、地元の交通機関としての
機能と夏の海水浴客輸送で年間約800万人を輸送した
海水浴シーズンには水戸駅前停留所付近に200mも
乗客が並んで係員が整理誘導していた

1951年(昭和26年)から在来の小型車よりも
収容力を増した半鋼製ボギー車の新造が開始され、
保有する車両は30両を数え戦後急速に増加し始めた
通学客を続行運転で大量輸送する盛況であった
ラッシュ時の消費電力増大に伴い1954年(昭和29年)に
浜田と上水戸の両変電所の容量を増大させている
1956/02/10(昭和31年)ダイヤ改正により
茨城線の上水戸~大学前間に水浜線電車の直通運転を開始した
~衰退期~
しかし、水浜線の黒字経営は同年が最後で、
以降赤字経営に転落する
この頃から茨城交通は経営の主軸を
路線バス事業にシフトし、路線を拡充しつつ
増発してフリークエントサービス(高頻度運転)
を実施する一方で軌道事業の経営合理化を進めていった
かつての水浜電車は、
1928年(昭和3年)の全線開通時には全線通し
運転の電車を22分間隔で運転し、
さらに間に区間運転が入る頻発ぶりだった

茨城交通設立から8年後の1952年(昭和27年)
にも上水戸~大洗の電車は28分間隔で運転し、
水戸駅前や浜田への区間運転が間に入る
フリークエントサービスを実施していたが、
昭和30年代から始発の切り上げ・終電車の切り下げ
や運転間隔の間引き、主要駅の無人化など
の経費節減策の実施が相次ぎ、
待たずに利用できた電車の便利さは次第に失われていく
続々と新車を投入する一方で1962年(昭和37年)
までに減便で余剰になった小型の単車を全廃し、
保有車両を16両に減車した
その一方で茨城交通は水浜線と並行する区間に
路線バスを増発する
単線であった水浜線は
対向車との行き違い待避で時間ロスが発生し
表定速度が低いために目的地までの所要時間が長く、
電車の利用客は次第に運転本数も多く
待避待ちがないバスに流出していった
利用客誘致のために途中停留所を新設したが、
昭和30年代後半には年間乗客数が300万人を
割るほどにまで減少する
さらに地元自治体の水戸市議会からは、
水戸市街中心部を通る国道50号線の渋滞の原因とみなされ、
渋滞解消を理由に撤去要請を満場一致で可決された

1963年(昭和38年)10月から大洗発の電車は
原則として茨城線の大学前まで直通運転していたが、
徹底した合理化によるさらなる始発・終発時刻
の切り上げ・切り下げや運転本数削減が
利用客離れを促進し、1964年(昭和39年)
上期には乗客数が約125万7000人、
同年下期には約48万人と激減した
~軌道事業廃止~
1965/06/11(昭和40年)に水戸駅前~上水戸3.6 km
の部分廃止を実施する
短縮廃止と同時に比較的新しい車両10両を
仙台市電に売却し、残った車両は
戦前に製造された旧型の木造車わずか6両で、
合理化で減便されて日中48分間隔になっていた運転間隔は
1時間間隔とさらに減便された
多数の利用客にとっての目的地であった上市地区中心部の
商店街・上水戸・茨大前の手前の水戸駅前までしか
到達できなくなったあげく
大幅に減便された水浜線は、激減していた利用客を
目的地まで直通できる大増発された代替バスに
さらに流出させてしまい、同年上期には
乗客数約25万1000人、営業収入562万円・
営業損失1373万円と赤字額も大きく絶望的な状況となった
事実上軌道事業全廃への準備段階とも言える
開店休業に近い状態でかろうじて営業を継続したが、
もはや水浜線には自社の路線バスに対する競争力はなく、
茨城交通は1966年(昭和41年)にバス転換を決定する
05/23から造花や看板で飾り付けた廃止記念の
装飾電車(花電車)を運転し、
通用期間05/29 ~31の廃止記念の謝恩優待乗車券を発行、
部分廃止後に残っていた水戸駅前~大洗14.4 km全線を
05/31の運行を最後に06/01に廃止して同社の代替バスに転換された
水浜線が結んでいた水戸駅と大洗町の間は、
1985年(昭和60年)の鹿島臨海鉄道大洗鹿島線開業により
再び鉄道で結ばれた
(途中のルートは水浜線より概ね1.5 km ほど北方に敷設されている)
また現在は、茨城交通の路線バスの茨大前~栄町~水戸駅~
三高下~大洗~那珂湊が、水浜線とほぼ同じルートを走る
【年表】
1920/04/27(大正9年): 水戸海浜電気軌道、大工町~磯浜間
の軌道特許申請、同年08/30特許
1921/08/14(大正10年):水浜電車設立。本社は水戸市柵町。
1922/12/28(大正11年): 浜田~磯浜 (8.7 km) が開通
1923/07/01(大正12年): 根積町~浜田が開通
11/05:東柵町~根積町が開通
10/15:乗客誘致策として「水浜グランド」開設
草競馬を開催する
12/20:水浜電車連絡汽船発着場(涸沼川橋梁横)~湊
の連絡船の運航開始
1924/07/22(大正13年):郵便局前~東柵町 (2.1 km) が開通
1925/02/25(大正14年): 大工町~郵便局前 (1.0 km) が開通
02/26:磯浜 ~海門橋 (4.8 km) の軌道敷設特許
1926/12/14(大正15年): 磯浜~祝町 (4.2 km) が開通
水浜電車連絡汽船の運行を休止
1927/01/12(昭和2年):大工町~袴塚 (1.9 km) の軌道敷設特許
02/03日 :祝町~海門橋 (0.6 km) が開通
05/27: 谷中 ~ 大工町 (1.4 km) が開通
1928/07/10(昭和3年): 袴塚 ~ 谷中 (0.5 km) が開通
11/19: 海門橋 ~ 湊 (0.4 km) の軌道敷設特許
1930/11/22(昭和5年):海門橋~湊 (0.4 km) が開通
1931(昭和6年):乗客誘致策として「水浜電車ガール」
(女性補助乗務員)の乗務開始
1938/6/28(昭和13年): 水害で那珂川に架かる海門橋が流失、
海門橋~ 湊間が休止
1943/05/19(昭和18年): 上水戸(新)~光台寺裏(谷中付近)
(0.1 km) の軌道敷設特許
1944(昭和19年):人員不足対策として女性車掌を
30 ~ 40名程度採用
08/01: 県内交通統合で、水浜電車、茨城鉄道、湊鉄道
などが合併し、茨城交通発足、同社の水浜線となる
同時に上水戸(新) ~ 光台寺裏(谷中付近) (0.1 km) が開通
袴塚 ~ 上水戸(旧) ~光台寺裏を休止
1945/05/08(昭和20年): 大洗~海門橋間が不要不急線に指定され休止
08/02: 水戸空襲により全線休止
08/05日 :浜田 ~ 磯浜間が運転再開(10月1日までに全線復旧)
1952/02/01(昭和27年):上水戸 ~大洗間で直通運転開始
1953/10/20(昭和28年): 休止中だった袴塚 ~ 光台寺裏
および大洗 ~ 湊を廃止
1954/01/22(昭和29年): 大洗駅が旧駅の南側に移転
茨城線に乗り入れ運転認可
1956/02/10(昭和31年):茨城線の上水戸~大学前に乗り入れ開始
1958(昭和33年)9月 :集電装置の全線Zパンタグラフ化が完成
1961/01/16(昭和36年): 運転削減実施
職員21名の配置転換を実施
1962/08/16(昭和37年): 平均運転回数43.6%削減
磯浜駅を無人化。職員68名の自動車部門へ配置転換を実施
運転回数の削減に伴い今年度末までに区間運転用の単車を全廃し、
営業用車両を16両に削減。この年バス交通への転換を表明
1963/09/30(昭和38年):茨城交通本社を水浜電車設立以来の
柵町から大学前の自動車営業所敷地内に移転
10月 :日中の運転間隔を48分毎に減便
1964/05/18(昭和39年): 水戸商工会議所が水浜線撤去
の要望を茨城交通に通達
12/12:水戸市議会が水浜線撤去の要望を決議し、
茨城交通社長に通達
1965/06/11(昭和40年):上水戸 ~ 水戸駅前の営業を廃止
保有車両を16両から6両に削減し、日中の運転間隔を1時間毎に減便
1966/06/01(昭和41年): 全線の営業を廃止


【運転】
~戦前~
袴塚 ~ 海門橋は22分間隔、大洗 ~ 水戸駅前の所要44分
1955(昭和30年)頃
全線の直通を基本とする。26分間隔。
1963年(昭和38年)10月改正以前
水戸駅前で系統を分割、上水戸 ~ 水戸駅前、
水戸駅前 ~ 浜田 ~ 大洗、水戸駅前 ~ 浜田
の3系統で一部列車は大学前へ乗り入れ

1963(昭和38年)10月改正以後
(茨城線)大学前 ~上水戸 ~水戸駅前 ~大洗の直通に改めた
日中48分間隔、上り最終は大洗発19時、
下りは水戸駅前を18時36分発
他に大学前 ~水戸駅前と大学前 ~ 浜田の折り返しがあった
部分廃止以後の運転は不明
朝の混雑時には2 ~ 5両の続行運転が行われた
開業から廃止まで運転手と車掌が乗務するツーマン運転で
、ワンマン運転は実施しなかった


駅(電停)一覧
全線茨城県内に所在
(所在地は廃止時のもの)
*印は廃線間際の昭和30年代後半に
利用客増加を図るために増設された電停

袴塚 ~ 谷中(1953年10月20日廃止区間)

袴塚電停(水戸市)=1944/08/01(昭和41年)休止
上水戸(旧)電停 =1944/08/01(昭和19年)休止
谷中電停
上水戸 ~ 水戸駅前(1965/06/11:廃止区間)
上水戸(新)電停(水戸市) =茨城交通:茨城線
(一部茨城線大学前駅まで直通する便があった)
谷中電停
馬口労町入口電停=1953(昭和28年)以前に高等学校前から改称

一中前電停*=1957(昭和32年)以降に開設
砂久保町電停=1953~1964(昭和28年 ~ 昭和39年)の間に久保町から改称
『日本鉄道旅行地図帳』および中川 (1964) では「砂久保」。
砂久保町電停 0.3 1.0 1953年 - 1964年(昭和28年 - 昭和39年)の間に久保町から改称。
『日本鉄道旅行地図帳』および中川 (1964) では「砂久保」

公園口電停

大工町電停(開業時は向井町広小路)
1934(昭和9年)以降に大工町広小路に改称
1964(昭和39年)以前に大工町に改称
(旧)大工町電停=1925(大正14年)延長時の起点
1934(昭和9年)以降に廃止
泉町三丁目電停=1934(昭和9年)以降に泉町二丁目から改称
泉町一丁目電停* =1957(昭和32年)以降に開設
南町四丁目電停=1964(昭和39年)以前に泉町広小路から改称
南町三丁目電停
局前電停=1924(大正13年)延長時の起点
1930(昭和5年)以前に南町広小路から改称
『日本鉄道旅行地図帳』および中川 (1964) では「郵便局前」

水戸駅前電停=日本国有鉄道:常磐線・水郡線

水戸駅前 ~大洗(1966/06/01:廃止区間)

水戸駅前電停(水戸市)=日本国有鉄道:常磐線・水郡線
1965/06/11(昭和40年)移転
本社前電停=1964(昭和39年)以前に柵町から改称
1965(昭和40年)以前に廃止

三高下電停=1949(昭和24年)以降に開設
1958(昭和33年)以降に県立原子力館前に改称
1964(昭和39年)以前に再び三高下に改称
一高下電停 =1930(昭和5年)以降に中学校前から改称
東柵町電停=1923(大正12年)11月延長時の起点

駅の南で水門橋(みずもんばし)で桜川を越え、橋の北側に
軌道跡を示す石碑があり、橋の両端に
レールが残る他,架空線(トロリー線)を架ける
フックも残されている
(いずれも、Google ストリートビューで見ることができる)

本一丁目電停=1923(大正12年)6月延長時の起点
1930(昭和5年)以前に根積町から改称

本三丁目電停
本五丁目電停
本七丁目電停=1930(昭和5年)以前に廃止

浜田電停=車庫併設
1922(大正11年)開業時の起点

谷田電停
六反田電停(常澄村)
栗崎電停
東前電停
稲荷小下電停*=1964(昭和39年)以降に開設
大串電停
塩ヶ崎電停
平戸電停=涸沼川を運行する汽船へ接続するための支線が存在した
磯浜電停(大洗町)=1922(大正11年)開業時の終点
大貫電停
曲松電停
仲町電停=1960(昭和35年)以前に廃止
東光台電停
大洗電停=1945(昭和20年)2月
大洗 ~祝町間休止に伴い事実上の終点になる
1954/01/22(昭和29年)、旧駅の南側に移転
大洗 ~ 湊(1953/10/20:廃止区間)
大洗電停(大洗町)
北大洗電停 =1926(大正15年)12月~ 1927(昭和2年)2月に存在した
1930(昭和5年)11月までに廃止
祝町電停=1926(大正15年)延長時の終点
1945/05/08(昭和20年):休止
願入寺入口電停=1934(昭和9年)以前に開設
1945/05/08(昭和20年):休止

2代目海門橋の南詰に木造2階建ての駅舎が存在した
1930(昭和5年)湊までの延長時に新造された
鉄筋コンクリート造の3代目海門橋の南詰に移転
1938/06/28(昭和13年):海門橋が落橋し、以降事実上の終点となる
1945/05/08(昭和20年):休止
湊電停=1930(昭和5年)延長時の終点
当時の湊警察署付近、県道那珂湊大洗線の東側の側道上に位置した
1938/06/28(昭和13年):海門橋が落橋し、事実上の終点を海門橋
として運行休止(那珂湊市)
上水戸、谷中、磯浜、大貫、曲松、東光台、大洗には駅舎があり
駅員が常駐したこともあったが、末期は茨城線との
接続駅であった上水戸以外はすべて駅員無配置となった
~未成線~
湊 ~ 辰ノ口 ~ 湊町
湊は海門橋北側にあり、さらに市街中心部である
釈迦町から八幡下への延伸が計画されていた
湊町中心部への計画路線は路線予定地の所有者が
土地収用の対価として買収予定価格の4倍程度を要求する
などして進展せず、1931/12/16(昭和6年)付
「辰ノ口、湊町間工事施行認可申請期限延期の件」
・1932年(昭和7年)4月28日付「辰ノ口、湊町間工事竣功期限延期の件」
と再々に渡って着工の延期を申請し、ついには
1933/05/09(昭和8年)付「辰ノ口、湊町間軌道特許失効の件」
となって特許を失効してしまう
最終的には1934/03/13(昭和9年)付
「辰ノ口、湊町間起業廃止の件」となって延長計画は消滅した
なお、企業としての水浜電車による湊町中心部への進出は、
海門橋崩落で湊 ~祝町間の運行休止を余儀なくされた
翌年の1939(昭和14年)に、湊鉄道
(現・ひたちなか海浜鉄道湊線)の経営権を掌握する事で達成した
~廃線後の状況~
廃線後はその路盤の多くが道路に転用され,
六反田・大串電停付近以外はほとんどが市道となっている
また,浜田電停南の新川にかかる橋梁(歩行者用)は
当時のガーターを転用している
他にも,塩ケ崎電停付近には用水路にかかる小規模な
ガーター橋が残る
電停に関する遺構は,曙町電停に若干の痕跡
と大洗電停にホームの一部残る以外その殆どが湮滅している
全区間に渡って境界杭が多く残る



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茨城県廃路線・茨城交通茨城線(1926~1971) [駅奪取]


茨城交通茨城線は、かつて茨城県水戸市の赤塚駅と、
東茨城郡桂村(現・城里町)の御前山(ごぜんやま)駅
を結ぶ全長25.2㎞の路線で、1971年に廃止となた
茨城交通の鉄道路線である。
終着駅の名から御前山線の別称もあったほか、
茨城交通の路線となってからもかつての会社名である
茨城鉄道を略した「茨鉄線」の愛称で親しまれていました
終点は御前山駅を名乗っていますが、これは御前山の麓という立地と、
御前山という地名が城里町(鉄道建設当時は東茨城郡沢山村)
に存在するからである
那珂川対岸に東茨城郡御前山村(現在の常陸大宮市)があったため
誤解されることがありますが、御前山村は昭和の大合併でできた
自治体名であり、御前山の山頂と御前山の地名が桂村に存在する
にもかかわらず命名されたものである
駅名の御前山は自治体の御前山より古い
現況 廃止
路線距離:25.2km
軌間:1,067mm

起終点
起点:赤塚駅
終点:御前山駅

駅数:16駅(起点駅および終点駅を含む)

複線区間:なし(全線単線)
電化区間:赤塚駅~大学前駅間


運営
開業:1926年10月24日
廃止:1971年2月11日

所有者:茨城鉄道→茨城交通
茨城線(茨城交通)
赤塚駅
金毘羅前駅
西原町駅
上水戸駅
曙町駅
南袴塚駅
堀駅
田野駅
飯富駅
藤井駅
那珂西駅
石塚駅
常陸岩船駅
阿波山駅
阿野沢駅
御前山駅
1921/02/21(大正10年):茨城鉄道に鉄道敷設免許状下付
(東茨城郡河和田村~同郡澤山村間)
1923/03/23(大正12年):鉄道敷設の区間変更の認可
(水戸市~東茨城郡澤山村間)
1923/08/16:茨城鉄道設立
本社は東京市京橋区銀座
社長の堀江正三郎は東京在住の実業家で茨城県出身
1926/03/22(大正15年):起点を赤塚駅に変更
1926/10/24:赤塚~石塚間開業
1927/02/23(昭和2年):石塚~阿波山間開業
1927/02/24:鉄道敷設免許状下付
(東茨城郡澤山村~那珂郡玉川村間、那珂郡野口村~同郡長倉村間)
03/26:阿波山~御前山間開業
1928/05/10(昭和3年):瓦斯倫動力併用(赤塚~上水戸間)
07/06:瓦斯倫動力併用(上水戸~石塚間)
茨城鉄道本社を茨城県東茨城郡常磐村(現・水戸市)に移転
1929/09/25(昭和4年):瓦斯倫動力併用(石塚~御前山間)
1931/10/14(昭和6年):那珂郡野口村~同郡玉川村鉄道免許失効
(指定の期限まで工事施行認可申請を為さざるため)
1935/07/17(昭和10年)御前山~長倉間鉄道免許取消
(指定の期限まで工事竣工せさるため)
1944/08/01(昭和19年):県内交通統合で、水浜電車、茨城鉄道、湊鉄道
などが合併し、茨城交通発足、同日、水浜線の谷中~上水戸間開業
11/18:赤塚~上水戸間電化
1945/06/01(昭和20年):上水戸~大学前
(当時は南袴塚)間電化
1954(昭和29年):水浜線の茨城線への乗り入れ運転認可
1956/01/20(昭和31年):水浜線、上水戸~大学前間の乗り入れ開始
1957/11/20(昭和32年):全線無煙化(気動車化)
1965/04/25(昭和40年):水浜線、上水戸~水戸駅前の営業廃止(6月11日)
を控え、赤塚~大学前間の電車運転を廃止
1966/06/01(昭和41年) 石塚~御前山間の営業廃止
1968/06/16(昭和43年):大学前~石塚間の営業廃止
1971/02/11(昭和46年)赤塚~大学前間廃止により全線廃止

1968年の石塚・大学前間廃止時と1971年の全線廃止時の
2度に亘って謝恩優待乗車券を発行したが、
1966年の石塚・御前山間廃止時は
同日に廃止された茨城交通・水浜線とは対照的に、
記念乗車券の発行も記念イベントの開催も無かった

【駅一覧】
赤塚駅
|
東石川駅
(1960年代初頭に金比羅前より改称)
|
西原町駅
|
上水戸駅
|
曙町駅
|
大学前駅
(旧「兵営前」?)
|
堀駅
|
田野駅
|
飯富駅
|
藤井駅
|
那珂西駅
(なかさい)
|
石塚駅
(いしつか)
|
常陸岩船駅
|
阿波山駅
|
阿野沢駅
|
御前山駅



【接続路線】
赤塚駅:常磐線
上水戸駅:茨城交通水浜線
藤井駅:那珂川砂利合資会社線(貨物軌道)
【廃線後の状況】
現在、かつての茨城線の全線にわたって同じルートを走る路線バスはない
ただし、上水戸~御前山間は、御前山~飯富~栄町~水戸駅が、
ほぼ同じルートを走る

また、赤塚駅~東赤塚 ~自由が丘~水戸駅のうち
飯綱神社~西原二丁目間は廃線跡を転用した道路上を走っている
このバス路線の東赤塚アパート入口バス停がかつての
「東石川駅」の場所と完全に一致する
また、同路線の「西原二丁目バス停」が国道50号線との
踏切脇にあった「西原町駅」に近接している
廃線後に線路跡のほとんどが 自動車道や宅地になったため
はっきりとした痕跡は判りにくいが、那珂西駅のホーム跡と
御前山駅近くの小川にある橋台が残っている
間接的な痕跡として(2015年当時)
旧石塚駅周辺に旧駅前通りが「石塚駅前通り」の
通称名として残っていることと、旧駅前で営業する
石塚駅前タクシー(有)が現存
また、旧御前山駅周辺には「駅前」という地名が現存している
また,全線に渡り
「茨城交通」「茨交」などと書かれた境界杭が多く残されている
【余談】
水戸市は、1889年に市制が施行された際、茨城県内で唯一の市となりました
それ以前は、上市(うわいち)と下市(しもいち)の旧水戸城下、
常磐(ときわ)村、吉田村、浜田(はまだ)村、細谷(ほそや)村
などが含まれていました。
水戸は、徳川光圀(通称:水戸黄門)や偕楽園で知られる場所であり、
現在は約27万人の人口を有する県都として、地方中核都市圏の
リーダーとしての役割を果たしています



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アストロニャッシュ廃駅探査履歴  1014、香淀駅 [駅奪取・アストロニャッシュ廃駅探査]





2024/06/09 00:17
アストロニャッシュが廃駅
1014、香淀(こうよど)(広島県)駅 を発見
初回奪取:2023/01/21
奪取回数:4


[電車] JR三江線
現存駅:2/2
廃駅:33/33

広島県三次市作木町門田(もんで)字下組89
駅構造:地上駅
ホーム:1面1線


開業:1963/06/30
廃止:1981/04/01


~備考~
無人駅
路線廃止に伴う廃駅

1963(昭和38年)6月30日 三江南線(現在の三江線)
の式敷駅~口羽駅間延伸に伴い新設
旅客営業のみの無人駅
1975(昭和50年)8月31日 当駅を含む 江津駅~三次駅間が
全通したため 三江南線が三江線の一部となり
当駅も三江線の所属となる
1987(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化により
西日本旅客鐡道へ承継
2018(平成30年)4月1日 三江線全線廃止に伴い廃駅となる


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

取得廃駅
369

取得廃線
31路線

制覇廃線
31路線

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~



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